世俗歌曲考

(歌曲のミスプリに関しては該当項目を参照してください)


Sieben Lieder op.3/Nr.1 Ach Wandern!
Sieben Lieder op.3/Nr.1 Ach Wandern!

 19世紀ロマン派のドイツの作曲家で、ピアノ伴奏による歌曲に手を染めなかった者は皆無と言ってよい。ラインベルガーも例外ではなく、1862年から1890年にかけて歌曲集を刊行した。単体で発表したことはなく、すべて曲集として刊行している。しかしそれらは連作歌曲を形作ることは少なかった。ほとんどがアンソロジーであり、曲集そのものが連作とみなされたり、連続して演奏されることを意図しているとは言い難い。

 

 ほとんどの曲集は時間的関係や、その他の関連のない引き出しの中にストックしていた初期の歌曲から集められている。調の組み合わせでも同じことが言え、例えば作品3ではホ長調に続いてホ短調と変ホ長調の順(1番から3番)であったり、作品22ではロ長調の後にハ短調(3番と4番)が続く。作品26では変ニ長調とロ長調が並んでいる(3番と4番)。連続して演奏することに頓着していないのだろう。最初の標題付き歌曲集『Zeiten und Stimmungen 時と雰囲気 作品41』ですら、使用されるテキストによって、異なる演者を要求する(1番と5番が男声。2番が女声)。これは統一的チクルスを形成すると言えない。またこの作品41までの5作品では往々にして出版に際して手直しされ、直筆原稿との差異が見受けられるのも特徴かもしれない。

 

 ラインベルガーは成人して以降、11曲の歌曲集(100曲)に作品番号を与え出版した。それだけ出せば十分だろうと思うのだが、197作品に及ぶ出版数から鑑みればその比率はそれほど高くない。むしろ彼の声楽作品の焦点は独唱ではなく合唱曲であり、かつ現代ではよく取り上げられる宗教曲(36曲)ではなく世俗合唱曲(48曲)である。また室内楽を含む53曲のピアノ曲。そして28曲のオルガンソロ曲をみてもそれほど多くはなく、やはり歌曲は傍流でしかない。

 

 概してラインベルガーの歌曲は、直截で気取らない旋律を取る。極端に声を酷使しないし、コロラトゥーラによるメリスマ唱法も使われない。彼はワーグナーや新ドイツ楽派とは一線を画したが、半音階主義とフレーズ構造に影響を及ぼす道は辿っている。またその他の特徴として、今日ではほとんど忘れられている彼の同時代人のテキストを採用していることである。彼らの一部は知人であり、何人かは友人でもあった。習作期はいわゆる文豪の作品に手をかけることもあったが、成人して以降は故意に避けている節がある。ラインベルガーは当時、妻フランチスカも関与してたミュンヘンの詩作グループ「クロコディール Das Krokodil」に頻繁に出入りし、世俗声楽曲のテキストを狩猟していた(ただし合唱曲のテキストを探していたと言っていいかもしれない)。クロコディールにはガイベルのほか、1910年にノーベル文学賞を受賞するパウル・フォン・ハイゼも所属していた。ただしハイゼは合唱曲では採用されたが、独唱曲では取り上げていない。名をはせた文豪を数えれば、アイヒェンドルフの2曲、フランシスコ・ペトラルカ、ゲーテ、シラー、メーリケ、ガイベルが各1曲ある程度である。また、ほかの作曲家がすでに作曲を行っているものも少ない。リストはペトラルカのソネット(作品129の2番)を1830年代に作曲している。ゲーテの「夜の歌」(作品3の7番)とシラーの「乙女の嘆き」(作品57の7番)はシューベルトのD119とD191で知られている。ゲーテの詩はカール・フリードリッヒ・ツェルターも手がけている。「Ingeborgs Klange インゲボルグの嘆き」(作品22の4番)はジルヒャーが手がけていた。これら先達の作品にラインベルガーが気づいていたかどうかはわからない。ツェルターは当時ですら忘れらていた存在であり、そもそも未出版であった。リストとは面識があったにしても、音楽の美的文体で相容れない存在であった。

 

 ラインベルガーには歌曲の習作が78曲あり、特に1857年以降頻度が増大する(70曲)。この年は後の妻フランチスカとミュンヘンオラトリオ協会を介して知り合った年である。ほとんどがメゾソプラノための作品あり、フランチスカ自身の声域はメゾであった。彼女が歌うことを念頭においていたと言っていいだろう。

 

 彼は1862年の終わりに作品3として、7曲の歌曲を刊行した。歌曲集は1857年から1861年にかけて作曲されフランチスカに献呈されている。彼女自身が日記に言及しているように、歌曲集の刊行はフランチスカからの提案であり、直接的には献呈は当然なのだが、作曲家の彼女への思慕が募ったものであるのは明らかである。歌曲全般に言えるが、上述の通り極端な技巧も要求してない。音域も狭くf2が1度しか出てこない。アマチュア歌手の彼女が歌うことが大前提なのである。詩人であった彼女のいくつかのテキストに作曲も行なっている(作品136や作品152では9曲そして作品158)。彼女が翻訳したテキストにも曲を付けた(作品55の6番と作品129)。ちょうど100曲ある歌曲の内、31曲が彼女の手によるものである。ラインベルガーにとっての最大の詩人は最愛の人であった。

 

 フランチスカは世俗合唱曲や宗教曲のテキストもラインベルガーに提供していた。最後の作品はクリスマスカンタータ『ベツレヘムの星 作品164』である。この曲の完成から世界初演にかけて彼女は臨終の床に就き、ラインベルガーはとうとう初演に立ち会えなかった。1892年の大みそかに彼女は亡くなる。ラインベルガーの最後の歌曲集『Am Seegestade op.158 湖畔にて 作品158』が1890年に上梓されている。これが夫婦合作による最後の連作歌曲集となる。出版されたころは、すでにフランチスカは病床についていた頃であった。『湖畔にて 作品158』の上梓を持って、作曲家は世俗歌曲集の出版を最後にしている。作曲家にとっての世俗歌曲集はフランチスカに始まり、フランチスカで終わったのであった。