ラインベルガーを取り巻く人たち
Franziska (“Fanny”) von Hoffnaaß (1831-1892)
妻。8才年上。将校(Ludwig von Hoffnaaß)の未亡人。旧姓・Jägerhuber。詩人・文学者。
ヘンリエッテ・ヘッカー
Henriette Hecker (1880-1941)
ベルリンの銀行家エミール・ヘッカーの娘。ビルトバット・クロイトにて1900年の休暇中に知り合う。1901年の春まで頻繁な文通がなされた。最初の手紙の日付は1900年8月20日。最後の日付は1901年4月17日。1901年11月、彼女への最後の手紙は発送されなかった。
彼女が結婚する際にラインベルガーは手紙の処分を求めたが、ヘンリエッテはあえて残しており、ラインベルガーの肉声を知る大きな手掛かりとなっている。
彼女に対する感情はいかばかりだったのだろうか? 妻ファニーを失った後、心の隙間を埋める存在だったのか? それは老いらくのはかない実らぬ恋だったのだろう。
同僚
ハンス・フォン・ビューロー
Hans von Bülow (1830-1894)
閉鎖されていたミュンヘン音楽院をリヒャルト・ワーグナーと共に再建し、ラインベルガーを作曲・オルガンの教授に招く。また多くの彼の作品ヨーロッパ中で演奏した。
アレクサンドル・ギルマン
Alexandre Guilmant (1837-1911)
フランスの高名なオルガニスト、作曲家。『オルガンソナタ8番』や『オルガン協奏曲 1番』などいくつかの作品をパリで取り上げたことにより、『オルガンソナタ第9番 変ロ短調 作品142』の献呈を受ける。ギルマンはラインベルガーとウマが合い、その後の演奏旅行で多くのラインベルガー作品を取り上げた。
ヨハネス・ブラームス
Johannes Brahms (1833-1897)
ラインベルガーは非常にブラームスを尊敬しており、『二つのピアノ曲 作品45』を献呈した。その際独身の彼は既婚者のラインベルガーをうらやむような皮肉めいた返答を手紙でしている。ブラームス自身もラインベルガーの作品を演奏している。1970年6月23日にブラームスはラインベルガー家を訪問しており、2人は夕食前にハンガリー舞曲の連弾バージョンを弾いて楽しんでいる。また交響曲第四番はラインベルガーのオルガン作品に影響を受けている。ブラームスの訃報に際しラインベルガーは『ミサ曲 ト短調 作品187』を再度献呈した。
リヒャルト・シュトラウス
Richard Strauss (1864-1949)
ミュンヘンで生まれ育った彼。直接ラインベルガーの教えは受けていないが、作曲のコンペティションで評価されている。歌劇『塔守の娘 作品70』の代理上演、『オルガン協奏曲 第2番 作品177』ミュンヘン初演(世界初演ではない)など、いくつかの作品の演奏を任されている。
弟子たち
エンゲルバート・フンパーディンク
Engelbert Humperdinck (1859-1921)
代表作メルヘン・オペラ『ヘンゼルとグレーテル』はラインベルガーの歌劇『七羽のカラス』が契機となっている。
ジョージ・ホワイトフィールド・チャドウィック
George Whitefield Chadwick (1854-1931)
アメリカの作曲家、教育者。ミュンヘン音楽院にてラインベルガーの下で学ぶ。アメリカ音楽史では欠かせない存在。また本国アメリカにおいて師の作品を多く紹介した。
ルイーゼ・アドルファ・ル・ボー
Luise Adolpha Le Beau (1850-1927)
Toccata in e minor, op.104.を献呈される。最終的には袂を分かっている。
エルマンノ・ヴォルフ=フェラーリ
Ermanno Wolf-Ferrari (1876-1948)
イタリア系。ワグネリアンだったのでソリが合わなかったもよう。
ホレイショ・パーカー
Horatio Parker (1863-1919)
アメリカの作曲家、教育者。アメリカでチャドウィックの下で学んだあと、その紹介状を携えてミュンヘンへ渡り、ラインベルガーに師事した。彼もまたラインベルガーの作品がアメリカで人気が高かったことを報告している。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
Wilhelm Furtwängler (1886-1954)
13~15才ぐらいの頃に父親アドルフの教育方針で、家庭での教育を受け、音楽の部門で呼ばれたのがラインベルガーであった。
ヨーゼフ・レンナー・ジュニア
Joseph Renner jr. (1868-1934)
ラインベルガーの弟子、擁護者。1885年からラインベルガーの指導を受け、その生涯を師のためにささげることとなった。1893年からレーゲンスブルクで活動し、大聖堂オルガニスト・1896年には教会音楽学校にオルガン教師、1912年から教授となった。
ラインベルガーに対するレーゲンスブルクのセシリア協会からの攻撃に際し、恩師のためによかれと、セシリア協会の作法にのっとってミサ曲や宗教曲の改訂を行うなどした。曲によっては原曲の姿を30%ほどしかとどめないものもあった。op.126、op.172の混声合唱版を作成。op.176の改訂などに携わった。
テオドア・クロイヤー
Theodor Kroyer (1873-1945)
ラインベルガーの擁護者。はじめての伝記を執筆。
ルイ・アドルフ・コーン
Louis Adolphe Coerne (1870-1922)
絶筆となったop.197を補完。
ヨハン・ネポムク・カバッロ
Johann Nepomuk Cavallo
写譜屋。『ヤイロの娘 op.32』のオーケストラレーション。『スターバト・マーテルop.138』の弦楽部分の完成にかかわる。
アドルフ・ザントベルガー
Adolf Sandberger (1864-1943)
ラインベルガー死亡時に新聞に寄稿し評論をした。なんだかんだ出てくる
教師
セバスチャン・プーリー
Sebastian Pöhly(1808-1889)
最初の音楽教師。のちにオルガンソナタ#3「田園」を献呈。生涯にわたりラインベルガーと交流があり、晩年は経済的援助を受けていた。
フランツ・ハウザー
Franz Hauzer (1794-1870)
ミュンヘン音楽院校長
エミール・レオンハルト
Emil Leonhard (1810-1883)
音楽院時代にピアノを指導。
カール・エミール・フォン・シャーフフォイトゥル
Karl Emil von Schafhäutl (1803-1590)
地質学・冶金学の研究者。音楽にも精通し楽器製造にも関わる。穏健的セシリア主義者。ミュンヘン音楽院時代のパトロンでありメンター。生涯にわたってラインベルガーと交流した。
フィリップ・シュムツァー
Philipp Schmutzer(1821-1898)
オーストリア・フェルトキルヒ在住の音楽家。1849年より音楽院に進むまでの間指導を行う。
ヨハン・ゲオルク・ヘルツォーク
Johann Georg Herzog (1822-1909)
ミュンヘン音楽院教授。左のハウザーの意図に反してラインベルガーは彼にオルガン奏法を師事した。
ヨーゼフ・ユリウス・マイヤー
Josef Julius Maier (1821-1889)
音楽院時代に音楽理論を指導
フランツ・ラッハナー
Franz Lachner (1803-1890)
ミュンヘン音楽総監督。音楽院の課程を修了した後、3年間師事した。
他
キャスパー・エット
Caspar Ett (1788-1847)
彼の『Missa ferialis in F major』を補完するために、1887年Gloriaを作曲。2年後op.159に流用
セシリア運動関係
フランツ・クセバー・ハーベルル
Franz Xaver Haberl(1840-1910),
レーゲンスブルク教会音楽学校校長。セシリア運動の指導者のひとり。『ミサ曲 変ホ長調 op.155』および『ミサ曲 ヘ短調 op.159』完成時にかかわり(前者は意見を求められ、後者は献呈された)、のちにドイツ・オーストリアを巻き込んだセシリア運動とラインベルガーの教会音楽に関する論争の基となる
ヨハネス・エバンジェリスト・ハーベルト
Johannes [Johann, Jan] Evangelista [Evangelist] Habert(1833-1896)
オーストリア・セシリア協会創設者。ヴィットの総ドイツ・セシリア協会とは対立。『ミサ曲 ヘ短調 op.159』の問題発生時にはラインベルガーを擁護した。
フランツ・クセバー・ヴィット
Franz Xaver Witt (1834-1888)
セシリア運動を主導した総ドイツ・セシリア協会の創立者
研究者
ハンス=ヨーゼフ・イルメン
Hans-Josef Irmen(1938-2007)
音楽学者。指揮者。音楽教師。ラインベルガーの研究者。
"Gabriel Josef Rheinberger als Antipode des Cäcilianismus.", Köln 1970 など