ラインベルガー語録


 研究が進んでいないこともあるのでしょうが、ラインベルガーという人は同時代の作曲家に比して、どのような人なのか非常にわかりづらいです。身体的特徴や性格描写など皆無です。また彼自身の肉声がほとんど紹介されません。どのような人物だったのか把握することがとても難しいです。特に彼自身が残していた日記などはほとんど参照されていません。彼を知るには、妻フランチスカ(ファニー)の残した日記。自身の親族・同僚・出版社などへ宛てた手紙ぐらいしか参照されないと言って過言ではないです。

 

 右は英語文献に散見された、彼自身の肉声をいくつか拾ってみました。実際は書簡集など宝の山に埋もれているのでしょうし、独文伝記にはいろいろあるのかもしれませんが、膨大な作品の解説に引用されてこないというのは、その発言はあまり面白くないのでしょうか?

 

 他の作曲家と比べ、含蓄を含んだ言葉、ウィットな表現、突拍子もないエキセントリックな行動が散見しないのはラインベルガーは音楽家として、常識人過ぎたのかもしれません。ロマン派をはじめ作曲家の奇人変人ぶりの方が問題かもしれませんが(笑)。

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★「それから歌いやすさと音の美しさ! それら無しに音楽の正当性はありません!...音楽はくよくよ思い悩んだり不愉快に聞こえるべきではありません。音楽は本質的に喜びの発露であり、それは痛みの中でさえ悲観論を知らないのです」

1896年1月16日付けヨゼフ・レンナー・ジュニア宛ての手紙

 

「私は死ぬ。 - 主は常に私に善きことをされる」

1901年11月25日午前9時半頃、死の床についたラインベルガー最後の言葉。姪のオルガが伝えています。その日の午後4時半頃ラインベルガーは息を引き取りました。

 

「(少なくとも私にとって)音楽の本当の核心は、常に私たちの前を退く幸せを切望する感覚です」

1901年1月2日付けヘンリエッテ・ヘッカー宛手紙。カッコ内も原文に含みます

 

「芸術と詩は言葉に表すことができない快適さの源です」

1900年12月12日付け17日ヘンリエッテ・ヘッカー宛手紙。ラインベルガーは非常に読書量が多く、多くの書物を所有していたそうです。妻フランチスカ(ファニー)をはじめ、同時代の文学者にも多くの友人がいました。

 

「音楽は言葉の上位に置かれており、言葉ではもはや満たされなくなった時に始まる。それゆえ、説明によって聞き手に音楽を近づけようとすることは無駄なことなのである」(2019/Mar/25, 教文館出版部様訳。許可を得た上で差し替え)

1890年ごろの言葉。当時の最先端の音楽様式(ようはワーグナーや新ドイツ楽派)の時流に乗らないことに関して。Inspektionsbuch Josef Rheinberger an der König Musikschule München 1890-1891

 

「英語には独特なエネルギーがあります」

1879年初頭ケルビーニの英文伝記を独訳した際の言葉。どうもこの翻訳をきっかけにしてイギリス詩人の英語の詩に興味を持ち、妻フランチスカが独訳したテキストにて無伴奏男声合唱のための『Seebilder op.116 湖畔の風景 作品116』の4曲を同年作曲した。

 

★「昨今、人はすぐに死んでしまう。ある者はすでに長い間死んでいるが、それに気がついていないだけです」

(1900年12月9日付 ヘンリエッタ・ヘッカー宛書簡。

非ワグネリアンのラインベルガーは生前から自己の作風が時代に取り残されていきつつあるのを自覚していた。「ある者」とは自分の周りの非ワグネリアンたちだけではなく、自分自身もあてはめていたのでしょう。)

 

★「僕はどんな音楽よりも教会音楽を書きたいし、その能力があります」

(1853年2月14日付両親にあてた手紙より。14歳になる直前。ミュンヘン)

 

★「お父さんから私が結婚するという話を聞いていると思いますが、彼女は私が愛してやまない、とても聡明な女性ですので、あなたもほかの家族も喜んでくれるでしょう」

(1867年4月3日付け、故郷の長兄・ダヴィットにあてた手紙。28歳。結婚に際し妻フランチスカのことについて)

 

★「これぞ音楽の喜び。ショーペンハウエリアンどもは地獄に落ちろ!」

 (1874年2月7日。ファニーの日記。私的ソワレでモーツアルトのヴァイオリンソナタを演奏した際に発した言葉。その後すぐに自作のヴァイオリンソナタ#1 変ホ長調 op.77にとりかかる。34歳。彼が感情をむき出しにした発言はこれ以外に見たことがない)

 

★「宮廷楽長の地位の良いところは、劇場とは無縁であることです」

(1877年の宮廷楽長就任際して。前任者ヴェルナーとは異なり教会と劇場を同時にこなさなければならない立場をとらないようにした。劇場時代によほどいやな思いをしたのかもしれない)

[注記:この言葉はCarus-Verlak 『Cantus Missae Messe in Es op.109』ヴィリ・シュルツェによる序文でラインベルガーの言葉として紹介されていますが、実際はフランチスカから義兄ダヴィットに宛てた手紙(1877年9月21日)が出典です。ラインベルガーの言葉ではありませんが、せっかくなのでこのまま掲載します]

 

★「私の本当の洗礼名はガブリエルではなく、ヨーゼフの祝日(3月19日)に洗礼を受けたので、神父はヨーゼフと与えてくれました。この変更は徐々に浸透し、今では誰も知らないことです。」

(1901年2月17日。最晩年に知り合ったペンフレンド、ヘンリエッテ・ヘッカーにあてた手紙。出生時との名前の違いを告白している「Josef その名前に関して」を参照してください)

 

★「私もあなたが望むように、オルガン・ソナタをNr.24まで作曲したい。しかし、2つの困難がある。ひとつは、ピアノと違って、オルガンの音型とパッセージの多様性が限定されること。もうひとつは、私の健康状態です。これらがなければ、Nr.24まで完成させたいのですが。」

(オルガンソナタNr.12を献呈したAlexander Wilhelm GottschalgがUrania誌(1902)にて紹介した、Albrecht Hänlein(1840-1909, マンハイムのピアニスト)宛ての手紙。時期は不明)

(翻訳は、小林みゆき, 『J. G. Rheinbergerのオルガン音楽 -Max Regerとの比較に基づいて(その1)-, 盛岡大学20周年記念論集『文学部の多用なる世界』, 2003』より。なお小林はGottschalg宛てと紹介しているが混同している。Matin Weyer: Die Orgelwerke Josef Rheinberger. p.105、および注釈53を見よ。2019/02/10修正)