世俗歌曲考2

(歌曲のミスプリに関しては該当項目を参照してください)


「私の大切な小さい妹(アマリア)、全然訓練されていないし、ほとんど子供じみていて、でも楽しい声で彼女自身しばしば歌いました。とてもシンプルで忠実で心に響きました。そして経験豊富な歌手(または声の芸人)が歌ったとき、すべての魅力と効果は消えてしまいました。まるで冒涜されたように、花びらの露のしずくではありません」

ヨーゼフとフランチスカ:1869
ヨーゼフとフランチスカ:1869

 

 これはヨーゼフ・ラインベルガーが晩年のペンフレンド、ヘンリエッテ・ヘッカーに宛てた手紙の中で、自作歌曲『Fünf Lieder 5つの歌』op.4の2番「Volkslied 民謡」に関して言及した文章です(1901年9月26日:書簡と資料 第8巻 p.31-32)。彼の歌曲を語る上で、必ず引用される肉声です。アマチュア歌手でもあった詩人の妻フランチスカのために大量に歌曲を作曲したヨーゼフです。彼の作品は技巧的難易度は低く、コロラトゥーラによるメリスマ唱法も使われません。自然であることが最上であると語っていたヨーゼフらしく、非常にアマチュアリズムを尊重しています。確かにその通りなのですが、彼が選んだ各々のテキストと彼の人生を照らし合わせてみると、もう少し生々しい面が見えるのではないでしょうか? 本項ではもう少し掘り下げてみたいと思います。

 

 フランチスカは1852年5月、20歳の時に将校のルードヴィッヒ・フォン・ホッフナースに嫁ぎました。だが2人の結婚生活は当初から波乱を含んでいました。夫ルードヴィッヒは軍人としても市民としても野心のある人物ではなく、日がな一日海の絵を描くことを好み、家を空けることが多い男性でした。翌年3月には長女が生まれましたが、5月に夭逝してしまいます。フランチスカ自身はカトリック教徒でしたが、プロテスタント教徒と結婚したことによる罰であると見なしていました。その後ルードヴィッヒは結核で倒れ、ベッドから離れられない状況になってしまいます。この前後フランチスカはミュンヘンオラトリオ協会に所属しています。日頃の憂さを晴らしたかったのでしょう。そして1854年にヨーゼフはオラトリオ協会の練習ピアニストに採用されました。紅顔の美少年ピアニストの参加に協会の女性陣は色めき立ったそうです。

 

 1857年6月10日にフランチスカの母親が開催したソワレに偶然なのかヨーゼフが招かれ、ピアノを披露しました。フランチスカもピアノを弾けましたので、用意されていたハッセの「テ・デウム」の4手連弾版を2人で演奏して楽しんだといいます。ここで2人は互いを意識し、急接近をすることになります。ヨーゼフはその後、歌曲やピアノ曲をフランチスカに見せるために足繁く通い、2人の距離は急速に縮まります。この時作曲家は18歳、若妻は26歳。8歳年上の人妻に作曲家は心を奪われ、あまり幸せではなかった人妻も新進気鋭の年下の音楽家に惹かれていきました。それは決して許されない感情でした。

 

 2人は誰にも内緒の関係を築くことになります。1857年12月、オラトリオ協会にてヨーゼフが作曲したオラトリオ『Jephtas Opfer イェフタの犠牲 JWV61』ではフランチスカがタイトルロールを歌い、作曲家がピアノを担当して演奏しました。オラトリオ協会は2人のデートの場であったのでしょう。フランチスカもヨーゼフも信心深いカトリック教徒でしたので、彼女の婚姻関係解消は全く考えられませんでした。2人は慎重に、誰にも知られないように関係を続けました。1859年の夏に、ヨーゼフの妹マリ(アマリエ)がミュンヘンに上京し、兄の身の回りの世話をしていましたが、2人の関係をどこまで気づいていたかはわかりません。

 

 1858年頃から翌年にかけて、ソプラノまたはメゾ・ソプラノのための歌曲の習作を大量に作曲していました。全てフランチスカのためと思っていいでしょう。「歌の年」と言っていいかもしれません。1859年にミュンヘン音楽院のピアノ教師の職に就き、その後初めての自作品『Vier Klavierstücke 四つのピアノ作品 op.1』を出版します。翌年には作曲などの教授に就任し、経済的に安定してきましたが、2人の関係は秘密でした。

 

Sieben Lieder op.3/Nr4 Hoch geht die See! via carus:CV50.004
Sieben Lieder op.3/Nr4 Hoch geht die See! via carus:CV50.004

 1861年、フランチスカの勧めもあり、これまで書き溜めていた自作歌曲をまとめ『Sieben Lieder 7つの歌 op.3』をSchottから刊行します(op.2は1867年に刊行されましたので、この作品集は彼の2番目の作品出版に当たります)。歌曲集は彼女に献呈されました。全集の歌曲集を校訂したManuela Jahrmärkerはヨーゼフの歌曲で採用された歌詞の特徴を「それらは自然と愛についての詩だが、しばしば悲しみ、実現しないあこがれ、最愛の人の喪失が影を落とす」と指摘しています。そして1.ホ長調→ 2.ホ短調→ 3.変ホ長調と調性の流れの関係性はあまり考慮しておらず、ほかの歌曲集同様連作歌曲とあまり考えていないと解説しています。では最初の歌曲集のざっと要約を眺めてみましょう。テキストそのものは拙訳を参照してください。

 

1. Ach Wandern ああ、さまよい人よ 1862?

 - 彷徨っているのは根無し草の旅人ではなく、作曲家の揺れる心

2. In der Ferne 遠くに 1861/Apr/10

 - 山や谷に例える物理的な距離に対する嘆き

3. Wenn zwei, die sich am nächsten stehn もし二人が 1861/Apr/7

 - 寄り添いたい願望

4. Hoch geht die See 海が激しく波立っている 1861/Apr/6

 - 波立つ海は激しく揺れる心情のメタファー

5. Ich irr in Tal und Hainen 私は谷と森の中をさまよう

 - 連れ添えないことへの嘆き

6. Vorüber! 過ぎ越し方 1861/Feb/3

 - 互いの愛の確信

7. Nachtgesang 夜の歌 ?

 - 夢の中でもいいから結ばれたい

 

 この曲集は2人の関係の現況を説明し、まさにJahrmärkerがいうように「自然と愛についての詩だが、しばしば悲しみ、実現しないあこがれ、最愛の人の喪失が影を落とし」ていて結ばれない愛を嘆いているのです。いわば曲集そのものは

 

「奥様、わたくしはあなた様をお慕い申し上げます。私たち二人の間には大きな物理的隔たりや精神的障碍がございますが、二人の心はいつも一緒です。あなた様も私の心を知り、私を想っていらっしゃってくださいます。それはあなた様もわかっていらっしゃるはずです。私たちは結ばれることはできませんが、あなた様を愛しています」

 

 フランチスカへの献呈は友人であるとか、尊敬や単純な思慕・憧れではなく、彼女への精一杯の愛情なのです。そして彼女自身も曲集が訴えたかったことを十分わかっているのです。ですので、Jahrmärkerは連作歌曲ではないと言いますが、これは紛れもなく連作歌曲なのです。「詩人の恋」ならぬ「作曲家の恋」なのです。おそらく調に関しては、いじってしまうと元来の曲で表現しようとした思いが半減するのではとヨーゼフは考えたのではないでしょうか? 実際のところはわかりませんが。

 

 歌曲集の4番「Hoch geht die See 海が激しく波立っている」で表わされた歌詞の激しい感情は、歌曲だけでは抑え切れなかたのでしょう、のちに1866年にピアノ独奏曲『Fantasiestück 幻想的作品 op.23』へと昇華されていきます。

 

Wache Träume op.57/Nr7 Mädchens Klage via carus:CV50.057
Wache Träume op.57/Nr7 Mädchens Klage via carus:CV50.057

 ヨーゼフはのちに1873年に出版した『Wache Träume 白日夢』op.57の終曲に収めたシラーの「Mädchens Klage 乙女の嘆き」に作曲していまして、これにシラーの戯曲をモデルとした交響曲(ヨーゼフは交響的絵画としてます)『ヴァレンシュタイン』の第2楽章「テークラ」のための習作と注釈を入れています。シラーの戯曲第2部では「ピッコローミニ父子」という題名ですが、ヨーゼフの交響的絵画は順番を入れ替えた第2楽章「テークラ」にあたります。ピッコローミニとは30年戦争時のオーストリアとスペインに仕えたイタリア出身の軍人で、ヴァレンシュタインの同僚オクターヴィオ・ピッコローミニとその息子マックスにあたります(ただしマックス自体はシラーの創作で、架空の人物です)。第2部「ピッコローミニ父子」はテークラからピッコローミニへの悲恋も描いています。「Mädchens Klage 乙女の嘆き」の第二節までがテークラの悲しみとして、戯曲の第2部「ピッコローミニ父子」第3幕第7場にシラーは組み込みました。そして第三部にてヴァレンシュタインは娘テークラとピッコローミニとの仲を引き裂いてしまいます(第3幕第23場)。

 

 ヨーゼフが交響的絵画『ヴァレンシュタイン』を完成させた1866年の春には、フランチスカの夫ルードヴィッヒは亡くなって一年ぐらい時間がたっていました。二人の結婚を妨げる要因は何もないはずでしたが、フランチスカの父は娘の再婚に当初反対をしていました。そう、娘テークラの恋愛を認めなかった父ヴァレンシュタインのようにです。またフランチスカ自身は腹部の腫瘍摘出手術のため、死を覚悟していました。彼女は生前葬のような自分のためのリサイタルを催します(この時完成したばかりのヨーゼフのレクイエム op.60を歌ったそうです)。結婚は認められない、彼女の命も危うい、自信作の歌劇『7羽のカラス』op.20は第1稿は劇場から拒否される、とラインベルガーはこの時期精神的に参る状態でしたが、交響的絵画『ヴァレンシュタイン』を書き上げることで乗り切ります。最終的には父親は二人の結婚を認められましたし、手術も成功裏に終わり、2人は結ばれることができました。歌曲「乙女の嘆き」は二人の間の最大の危機のころに書かれていたのでした。このように初期の歌曲の多くと交響的絵画『ヴァレンシュタイン』は、ヨーゼフとフランチスカの夫婦関係に端を発していまして、個人的履歴を反映しています。

 

Fünf Lieder op.4/Nr2 Volkslied via carus:CV50.003
Fünf Lieder op.4/Nr2 Volkslied via carus:CV50.003

 ここで冒頭の「Volkslied 民謡」の歌詞を見てみましょう。

 

春の夜、美しい小さな青い花の上に霜が降り、

花はしなびて枯れてしまった。

 

男の子は女の子を愛し、

二人はこっそり家出して、

お父さんもお母さんも知らなかった。

 

二人は外国に行ってしまい、

二人は幸せでも、星でもなく、

二人は腐って死んじゃった。

 

二人の墓に小さな青い花が咲き、

墓のように、互いに忠実に抱きしめた。

霜は二人をしぼませないし、干上がらない。

 

 要は結ばれない恋人同士が家出をし、外国で死んでしまいました。二人の墓に咲いた青い花枯れないでしょうという内容です。このテキストは民謡収集家のAnton Wilhelm Florentin von Zuccalmaglio (1803-1869)のものではないかといわれていますが、実はZuccalmaglioの全4連の歌詞の第1連から第3連はハインリッヒ・ハイネ(1797-1856)が『Tragödie 悲劇』の第2部の第1連から第3連に該当しています(ハイネが先なのか、Zuccalmaglioが先なのか。もしくは二人とも別のソースを基にしているのかちょっとわかりません)。

 

 ハイネの詩をローベルト・シューマンが取り扱っています(Tragödie Op.64-3/ Romanzen und Balladen IV)。またシューマンの妻クララも『Tragödie 悲劇』の第2部の第1連から第3連だけを歌曲に仕立てています(しかもクララはZuccalmaglioと同タイトルのVolkslied 民謡)。

 

 そう、シューマン夫妻もともに当初結ばれぬ愛を嘆き、駆け落ちして見知らぬ土地で死んでもいいから添い遂げたい心情を反映していたのです(ハイネの詩の発表は1844年。ローベルトの作曲は1847年のようです。結婚後ですから、かなりシンパシーを感じたのでしょう)。知ってか知らずか、ヨーゼフもやはり人妻との収拾できない道ならぬ愛を作品として吐露しています。

 

 ヨーゼフはフランチスカとの恋愛時代に多くの歌曲を書きました。そして書き留めた作品は結婚前にも後にも折を見て修正を加えながら出版していきます。作品3のように2人の関係、しかも秘められた関係を如実に表した歌曲集がいくつか存在します。 

 

Sieben Lider op.26/Nr.3 Mein Schatz ist eine rote Ros' via Carus:50.026
Sieben Lider op.26/Nr.3 Mein Schatz ist eine rote Ros' via Carus:50.026
Liebesleben po.55/Nr.6 Treib zu, mein kühnes Boot via Carus:50.055
Liebesleben po.55/Nr.6 Treib zu, mein kühnes Boot via Carus:50.055

▲実はop.26/Nr.3とop.55/Nr.6はレッスンを受けたことあるんです、てへっ!

 1869年5月に出版した『Sieben Lider 7つの歌 op.26』は1858年からから1866年にかけて差曲された商品をまとめている。この曲集はフランチスカとも仲が良かったヘドヴィッヒ・フォン・パッハーに献呈されました。しかしフランチスカは自身の日記でこう告白しています。

 

「夕方私は感激と愛情を持って、すべて私を通し、私のために作られたヘドヴィッヒ・フォン・パッハーの歌曲はを歌った」(1870年7月9日の日記:書簡と資料 第3巻 p.198)

 

 初めて連作歌曲と銘を打たれた『Liebesleben 愛の生活 po.55』ではJahrmärkerは、2人の結婚生活は反映していないと言っていますが当たり前です。この曲集に収録された8曲はすべて恋愛時代に書かれているのです。結婚生活を映し出すことなどできるわけがないのです。Jahrmärkerは前半3曲は明るく、4曲目から急に陰鬱な表現になるところまでは正しく指摘していますが、その背景までは考えが及ばなかったようです。特に非常にやるせない雰囲気で曲集を締めくくる終曲「Letzter Wunsch 最後の願い」は明らかに結ばれることが出来ない2人の心を、死の床につく主人公と結婚式を挙げたがっている恋人の姿を通して、ヨーゼフとフランチスカ交互の心を代弁しているのでしょう。

 

 ヨーゼフ・ラインベルガーの世俗歌曲はほとんど顧みられません。やはり彼同様に忘れらた同時代の作曲家たちの作品のように、埋もれてしまっています。またただ楽譜をぱっと見ただけでは面白みがないでしょう。同時代の人気作曲家、シューベルト、シューマン、ブラームス、後輩のR・シュトラウス、ヴォルフ、マーラーたちのように、劇的かつ技巧的な作品もありません。無茶な高音も要求しません(おそらく最高音はop.129の終曲でのAです。でもこの曲集は低声版が用意されていてその音はFです。オケ版から考えて低声版が正規でしょうから、最高音はop.55の終曲のAsが最高音でしょう。しかもこのAs自体もオプション)。妻がそうだったようにアマチュア向け、ドイツリート初心者向けといってもいいかもしれません。現代において彼の作品は宗教曲やオルガン曲(の一部)しか普及していませんし、音大教授として非常に高い評価を受けていましたし、宮廷楽長も長く勤めましたので、もしかしたら聖人君子のようなイメージがあるのではないでしょうか。でも、ちょっとだけ2人の関係を頭の片隅に置いて、世俗歌曲などにも興味を持っていただけましたら、その由来もわかり、面白みや愛着も沸いて楽しんでいただけるのではないでしょうか。