Marianische Hymnen op.171

マリアの讃歌 作品171

  1. Ave Maria (ソロSまたはT or AまたはB) 1889/2月
  2. Alma Redemptoris (SA) 1890/7月
  3. Salve Regina (SSA) 1890/9月
  4. Ave maris stella (SA) 1891/春
  5. Regina coeli (ソロSまたはT) 1892/1月
  6. Ave Regina (SSA) 1892/5月

概要

 6曲の聖母マリアを讃える歌を収録した『Marianische Hymnen op.171 マリアの讃歌 作品171』は面白い編成のコレクションである。独唱が2曲(この2曲は17世紀と18世紀のアリアを模範としている)、ソプラノ&アルト2声が2曲、SSAの三声が2曲と多岐にわたっている。そしてその製作過程は少々複雑である。一見1892年に出版されたように見受けられるが、実際は6曲は4年間(88年冬-92年春)にわたって作曲され、3回に分けて出版された。ラインベルガー自身は単独の独立した作品を想定はしていなかったようだが、「マリアの歌」はゆるやかに連続して出版された。これは出版社ロイッカールト社の社長、コンスタンチン・ザンダーからの1890年7月8日付の手紙で判明している。彼は作品171の2番の表紙デザインについて議論し、そして「何曲まで提供できるのか」とラインベルガーに尋ねている。1番から5番までは1889年から1892年の間に断続的に刊行され、表紙には作品番号は付けていなかった。作品番号を最初に与えられたのは6番である。ラインベルガーが出版社と作品番号について最初に言及したのは、6番刊行直前の1892年4月22日付けの手紙においてである。

 

 作品157のように全6曲全てでピアノ伴奏版も刊行された。ただし作品157はラインベルガーが準備したものだが、今回は作曲家自身ではなく、ロイッカールト社が委託した下請け編曲者によって編曲された。それでも編曲のすべてを承認を得るため、ラインベルガーには原稿を提出している。また当初1番は高声のために作られたが、出版後すぐに低声のバージョンも出版社側が作成した。



Nr.1 - Ave Maria - S or T (A or B)

 のちに作品171の1番(Ave Maria)になる下書きは1888年12月19日に完成した。ラインベルガーは12月21日に作品を見直して、終わりの部分を変更した。「Ave Maria」この曲はラインべルーが―の弟子で、ミラノに拠点を置く宗教音楽定期刊行雑誌『ムジカ・サクラ』の編集者、ジョゼッペ・テッラブッジョの求めに応じたものである。彼は教師に度々新作を依頼していた。作曲家は12月23日に清書をミラノのテッラブッジョに送り、少したってからこれまた少し変更したバージョンをロイッカールトに送っている。ロイッカールトはテッラブッジョが受け取った2日後、12月29日に直筆原稿を受領した返事を出している。どちらの版も1889年2月に作品番号無しで刊行された。ロイッカールトの印刷はおそらくアメリカでの販売も意図したものであり、英語歌詞とニューヨークの出版社グスタフ・シーマーの著作権を伴って発行された。またロイッカールトは3月19日にドイツ国内での市場開拓のため、『Ave Maria』の低声のためとピアノ伴奏への編曲を許可をラインベルガーに求めた。編曲の標本は8月14日にラインベルガーに送られている。



Nr. 2 Alma Redemptoris - SA

 ラインベルガーはブリュッセルの修道院のために、1889年12月22日、下書きと清書同時に「Alma Redemptoris」を書いた。これは以前ミュンヘンを訪れて作曲家と連絡を取り合っていたローマ教皇庁の地方滞在員のためである。作品はロイッカールトから出版された。社長のコンスタンチン・ザンダーは1890年4月18日付の手紙でこの作品について触れている。しかし7月まで印刷所には送られなかった。

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Nr. 3 Salve Regina - SSA

 作品171のための原稿を所収する写本には両方とも「作品171の2番」と書かれた2つの『Salve Regina』がある。この2曲は作品171の3番とWoO54の2番である。「WoO54の2番」はレーゲンスブルクの教会音楽学校のアルバムのため、3声の無伴奏女声合唱用として1880年5月29日に作曲された。1881年12月22日にラインベルガーは改訂を行い、オルガン伴奏を付与している。5年後に彼は再びオルガンバージョンを見直し、1886年9月24日に仕上げ、生徒でムジカ・サクラ発行者のジョゼッペ・テッラブッジョに送った。現存する原稿の版下によりこの『Salve Regina』が実際に出版されたことがわかっているが、印刷物のコピーは発見されていない。


 『Salve Regina WoO54-2』はテアティーナ教会に残っている演奏記録にて、王立聖歌隊のレパートリーに取り入れられていたことがわかっている。7回演奏されていることが記録として残っている。

 

 1889年5月21日付け手紙にて、テッラブッジョは宗教音楽コレクションを企画し、教師に3声の同声作品を求めた。ラインベルガーはかつての生徒の要望に同意し、テッラブッジョのコレクションのために新しい『Salve Regina』を作った。これが「作品171の3番」であり、原稿の注記に「テッラブッジョ氏のために / そしてライプチッヒのロイッカールト」と記している。

 

 ラインベルガーは依頼の手紙を受け取った直後の5月26日に下書きを始め、清書は28日になされた。作曲家は作品の完成直後にミラノに写しを送ったと思われる。6月5日、テッラブッジョは教師に『Salve Regina』を作曲してくれたことの感謝の意を手紙に書いている。ただし彼がムジカ・サクラにてこの作品を発表したのかどうかはわからない。

 

 作品171を完成させる過程で出版社に『Salve Regina』を送る際、作曲家は「作品171の3番」と「WoO54の2番」どちらの『Salve Regina』を送付するかはっきり決めていなかった。彼は1889年初めに「WoO54の2番」でテッラブッジョの委託だけをうけるために発行する予定だったかもしれない。その後イタリアとドイツで新しい作品をそれぞれ発表することにした。

 

 ロイッカールトは1890年の初夏までに「作品171の3番」を受け取ったはずである。1890年9月16日出版社は『Alma Redemptoris』と『Salve Regina』のピアノバージョンを「承認のため」に送っている:「ヴェルデンの下請けにて、あなたのオルガン伴奏の『Salve Regina』をピアノ用に編曲しました」。彼はまた「すでに印字された『Alma Redempt[oris]』の編曲」を同封した。9月29日、出版は印刷見本(総譜とパート譜)を発送している。


Nr. 4 Ave maris stella - SA

 作品171の4番「Ave maris stella」の出版についてはなにもわからない。下書きは1891年1月17日に行われ、続く21日に清書が完成した。ロイッカールトによる発行はおそらく1891年の春である。


Nr.5 Regina coeli - 独唱

 ラインベルガーは1891年10月28日に作曲し、その後すぐにロイッカールトに送ったと思われる。1892年1月4日に校正刷りを受け取り、印刷見本を23日にもらっっている。



Nr.6 Ave Regina -SSA

 6番目の作品「Ave Regina」は出版の過程で一度変更されたと思われる。下書きは1892年2月26日、清書は3月17日になされている。「Ave Regina」は3月4日と6日付けのロイッカールトからの手紙ですでに言及されている。ゆえにこの作品の再作成過程は以下のように見受けられる。

 

ラインベルガーは「Ave Regina」を2月26日に下書きした同日か翌日、彼は清書を行っている。この写しはロイッカールトに直ぐに発送され、社長のコンスタンチン・ザンダーは直筆原稿を受け取ったことを3月4日に感謝の言葉で認めた。原稿はピアノ用に編曲するため、すぐに編曲者に手渡された。ザンダーは3月6日に作曲家に報告したように、音楽構造のミスを指摘した。

 

 その際ラインベルガーは単に原稿を修正するのではなく、完全に新しいバージョンを用意し、3月17日の日付で原稿を書き下ろした。これが印刷されたバージョンである。おそらく作品は4月にかけて印刷され、ラインベルガーの生徒ヨーゼフ・レンナーは『Ave Regina』印刷見本をもらったことを5月7日に感謝している。